[製作家情報] フランシスコ・マヌエル・ディアス Francisco Manuel Diaz Fernandez(1942~) スペイン、グラナダの製作家。ギター製作をする前は塗装工や家具職人(ソファの木組みを作る職人だったそう)として働いていましたが、14歳の時に知り合いからその時ちょうど工房スタッフを探しているところだった同地の製作家エドゥアルド・フェレール(1905~1988)を紹介されます。その工房(兼ギターショップ)がグラナダの街でギター職人を志す若者たちのよき学びの場ともなっていたフェレールは、この少年の熟達した工具捌きを見て即座に採用を決めます。フランシスコもギター製作にのめり込み、1年後には最初のギターを製作、2年目には単独製作も任されるようになり、計3年をフェレールのもとで働きます。その後同地のもう一人の重要な製作家であるマヌエル・デ・ラ・チーカ(1911~1998)の工房で働き、彼はこの性質の異なる二つのブランドのエッセンスを十分に吸収することになるのですが、これが彼自身の製作哲学に深い影響を与えたであろうことは容易に想像できるところでしょう(彼によれば、フェレールはトータルな意味でのギターメーカーであり、何よりも「良質な音」であることにこだわりを見せたが、デ・ラ・チーカは細部までゆるがせにしない緻密な計算と設計に基づいた数学的な審美性を有したギターを志向したとのことです)。兵役を終えた1965年に彼は(最初はフェレールから工房への再就職を熱望されたそうですが)自身の工房をGomerez通り29番地に設立します。
内部構造について、表面板の力木配置はサウンドホール上側(ネック側)に2本のハーモニックバー、下側(ブリッジ側)は1本のハーモニックバーを設置しており、下側のほうのバーは高音側に5cmほど、低音側に3cmほどの長さのそれぞれ高さ5㎜程度の開口部が設けられています。扇状力木は左右対称7本を設置しており、このうち一番両端に配された(つまり両側横板に近接した2本)は上記下側バーの開口部を潜り抜けて上側バーにまで到達しています。ボトム部では扇状力木の先端を受け止めるようにハの字型に配置された2本のクロージングバーという全体構造。扇状力木は各上部が弓状に削られたいわゆるスキャロップド形状になっていますが、出荷後に処置をされた可能性もあります。また裏板は横に(木目と直角になるように)配置されるバーではなく木目と同じ方向に縦方向に左右対称6本がネック付け根からボトムまで設置されており(いちばん両横板に近接した2本はくびれ部分からボトムまでの間)、クラシックギターにおいては非常にユニークな構造なのですが、しばしば指摘されるようにヴァイオリンのBass bar を想起させもします。レゾナンスはG#とAの間に設定されています。
〔製作家情報〕 数多いスペインのフラメンコギターブランドの中でも、屈指の定番とされるコンデ・エルマノス。ブランドの始まりはマドリッドの伝説的なマヌエル・ラミレス(1864~1916)工房で、サントス・エルナンデス(1874~1943)と共に職人として働いていたドミンゴ・エステソ(1882~1937)が、1919年に同じマドリッドのグラヴィーナに工房を開くところまで遡ります。彼の教えを直接受けた甥のファウスティーノ・コンデ(1913~1988)がその弟達マリアーノ(1916~1989)とフリオ(1918~1995)とともにエステソの工房スタッフに加わり、エステソ亡きあとも「Viuda y Sobrinos de Domingo Esteso」(エステソ未亡人とその甥達による)というラベルでこのブランドを継続してゆきます。1959年にエステソの妻(※Nicolasa Salamanca エステソギターの塗装を担当していた)が亡くなるとラベルを「Sobrinos de Domingo Esteso/Conde Hermanos」に変更し、この時からコンデ・エルマノスの名前がブランド名として使われ始めます。
1960年代に入るとそれまでエステソを踏襲していたモデルを全てデザインから内部構造に至るまでオリジナルのものに一新し、半月型にカットした有名な Media Luna ヘッドシェイプもこのころからハイエンドモデルの符牒として採用され、この時期世界的に高まる需要もあり飛躍的に名声とシェアを広げてゆきます。
〔製作家情報〕 数多いスペインのフラメンコギターブランドの中でも、屈指の定番とされるコンデ・エルマノス。ブランドの始まりはマドリッドの伝説的なマヌエル・ラミレス(1864~1916)工房で、サントス・エルナンデス(1874~1943)と共に職人として働いていたドミンゴ・エステソ(1882~1937)が、1919年に同じマドリッドのグラヴィーナに工房を開くところまで遡ります。彼の教えを直接受けた甥のファウスティーノ・コンデ(1913~1988)がその弟達マリアーノ(1916~1989)とフリオ(1918~1995)とともにエステソの工房スタッフに加わり、エステソ亡きあとも「Viuda y Sobrinos de Domingo Esteso」(エステソ未亡人とその甥達による)というラベルでこのブランドを継続してゆきます。1959年にエステソの妻(※Nicolasa Salamanca エステソギターの塗装を担当していた)が亡くなるとラベルを「Sobrinos de Domingo Esteso/Conde Hermanos」に変更し、この時からコンデ・エルマノスの名前がブランド名として使われ始めます。
1960年代に入るとそれまでエステソを踏襲していたモデルを全てデザインから内部構造に至るまでオリジナルのものに一新し、半月型にカットした有名な Media Luna ヘッドシェイプもこのころからハイエンドモデルの符牒として採用され、この時期世界的に高まる需要もあり飛躍的に名声とシェアを広げてゆきます。
〔製作家情報〕 数多いスペインのフラメンコギターブランドの中でも、屈指の定番とされるコンデ・エルマノス。ブランドの始まりはマドリッドの伝説的なマヌエル・ラミレス(1864~1916)工房で、サントス・エルナンデス(1874~1943)と共に職人として働いていたドミンゴ・エステソ(1882~1937)が、1919年に同じマドリッドのグラヴィーナに工房を開くところまで遡ります。彼の教えを直接受けた甥のファウスティーノ・コンデ(1913~1988)がその弟達マリアーノ(1916~1989)とフリオ(1918~1995)とともにエステソの工房スタッフに加わり、エステソ亡きあとも「Viuda y Sobrinos de Domingo Esteso」(エステソ未亡人とその甥達による)というラベルでこのブランドを継続してゆきます。1959年にエステソの妻(※Nicolasa Salamanca エステソギターの塗装を担当していた)が亡くなるとラベルを「Sobrinos de Domingo Esteso/Conde Hermanos」に変更し、この時からコンデ・エルマノスの名前がブランド名として使われ始めます。
1960年代に入るとそれまでエステソを踏襲していたモデルを全てデザインから内部構造に至るまでオリジナルのものに一新し、半月型にカットした有名な Media Luna ヘッドシェイプもこのころからハイエンドモデルの符牒として採用され、この時期世界的に高まる需要もあり飛躍的に名声とシェアを広げてゆきます。
〔製作家情報〕 数多いスペインのフラメンコギターブランドの中でも、屈指の定番とされるコンデ・エルマノス。ブランドの始まりはマドリッドの伝説的なマヌエル・ラミレス(1864~1916)工房で、サントス・エルナンデス(1874~1943)と共に職人として働いていたドミンゴ・エステソ(1882~1937)が、1919年に同じマドリッドのグラヴィーナに工房を開くところまで遡ります。彼の教えを直接受けた甥のファウスティーノ・コンデ(1913~1988)がその弟達マリアーノ(1916~1989)とフリオ(1918~1995)とともにエステソの工房スタッフに加わり、エステソ亡きあとも「Viuda y Sobrinos de Domingo Esteso」(エステソ未亡人とその甥達による)というラベルでこのブランドを継続してゆきます。1959年にエステソの妻(※Nicolasa Salamanca エステソギターの塗装を担当していた)が亡くなるとラベルを「Sobrinos de Domingo Esteso/Conde Hermanos」に変更し、この時からコンデ・エルマノスの名前がブランド名として使われ始めます。
1960年代に入るとそれまでエステソを踏襲していたモデルを全てデザインから内部構造に至るまでオリジナルのものに一新し、半月型にカットした有名な Media Luna ヘッドシェイプもこのころからハイエンドモデルの符牒として採用され、この時期世界的に高まる需要もあり飛躍的に名声とシェアを広げてゆきます。
〔製作家情報〕 ジョン・レイ John Ray カナダ出身で現在はスペインのグラナダで製作している。伝統工法に忠実で研究心旺盛な製作家として知られています。彼は1989年に訪西しグラナダの地で英語教師をして何とか生計を立てながら最初の一年は地元の製作家を1人1人訪問し弟子入りを希望しましたが叶わなかった(ジョン曰く、当時もいまも基本的に身内のみを弟子にするという不文律がグラナダにはあるようです)。しかしその中で、ジョナサン・ヒンベス、ゲルマン・ペレス・バランコ、ラファエル・モレーノ、そしてアントニオ・マリン・モンテロが少なからず製作へのアドヴァイスや励ましを与えてくれたと彼は語っています。1990年にマラガにてホセ・アンヘル・チャコンのワークショップに参加、その後も2年ほどチャコンの工房で学んだ後再びグラナダに戻り、1996年に結婚するのを機に同地に居を構え本格的に製作家としての道を歩むことを決意します。1999年にロルフ・アイヒンガー(Rolf Eichinger 1944年 ドイツ、ストゥットガルト生まれの製作家で1997年にグラナダに移住し工房を設立している、2009年没。ジョンは彼の工房の隣に自身の工房を構えていました)と親交を深め指導を受けることで一気に製作方法から材の選定と入手方法に至るまでのトータルなスキルを獲得することになり、彼の充実したキャリアが始まります。